酸いも甘いも、生きるも死ぬも。
「あなたのお母さんも好きだったわよね、これ」
「あの人、これ嫌いだったんだよなぁ」
と色々な人が私に言った。
その度にそっけなく返す、「そうだったっけ」。
何故なんだろう。
この、なんとなく不愉快な感情はなんだろう。私の知らない母を知るときのなんとなくモヤモヤした感じは...
母と私、2人でぴったり一緒に歩いてきた人生の全ては、母の人生において「母親編」としてのひとつのチャプターでしかないことを、今になって突きつけられ、私は猛烈に妬いていた。
心の奥底でギラつくジェラシーっぽいやつ。
私の知らないお母さんは知りたくない。私だけのお母さんでいてほしい。お母さんとの思い出が1番素敵なのは私。そんな、ちんけでみっともない残された自分と向き合い、何か文章にして残すべきだと思い立ち、こうしてパソコンの前にいる。
母が亡くなって半年、私はようやく重い腰をあげて、相続の話やら、保険の話やら、人が死んだ後の面倒なあれこれに嫌々着手しはじめた。犬や猫のように、庭に埋めればおしまいならばいいものの、人間というのは、死んでもなお面倒くさいことだらけ。どうやら人間の死というのは、机に様々な書類が散乱し、未納の税金や保険料の請求書をなけなしのお金で片付けていくことのようである。
どこかの誰かが「そういう面倒な事務手続きの中で、少しずつ死を受け入れていくのよね」と言っていたような気がするが、役所のベンチに座り、口を半開きにして、私が何を考えているかといえば、もうお礼も言えない相手に、こんな面倒ごとをさせずに死ぬ方法はないのだろうかということばかりだ。
我が家の愛犬・あずきの亡骸を庭の八朔の木の下に埋めた翌年、「今年はうちの八朔が最高にうまい」と父が喜んでいた。私も死んだらせめて何かの肥やしになって甘い果実でみんなを喜ばせてあげたいところだが、どうやらそれも叶わぬ夢だ。(そもそもそんな気持ち悪い果実は誰も喜ばない)
まあ、そんなくだらないことを考えてしまうほどに、母の死後の後片付けは、私にとって辛い。
加えて、自分でも意外だったのは、それと同じくらい、私以外の人たちが母を懐かしみ、愛しみ、湯呑みに目を落として話す、「母についての物語」が苦手だということである。
これが冒頭に書いた、死者との思い出ジェラシーだ。
母は、数年前に父と離婚をして、ここ2年程は美大時代の同級生であるおじさんと暮らしていた。
母が「実は一緒に住んでいる人がいる」などと言い出した時には、何だか私の知っている母が遠くに行ってしまったようで、正直言って、大変気分が悪かったのだが、母が病気だと分かってから、そのおじさんと私は、半共同生活を送りながら母を看病をすることになってしまった。
仕事も長い休みをとって、地元埼玉に帰ってきた。それまで敬遠していた母とおじさんの家に寝泊りをしながら、力なくベッドに沈み込む母とラグビーW杯の中継を見たり、「もしも外国人と結婚するならどこの国の人がいいか」という議題で妄想を広げたりした。
ふたりの家は、静かな梅林に囲まれた、古いけれど作りのしっかりとした平家の一軒家で、玄関先では、飼い始めたばかりのオスの柴犬が出迎える。母が父と別居すると言って家を出た時、長年飼っていた犬と猫を置いていったことが記憶に新しかったおかげで、しっぽをふってじゃれてくる、その犬の罪なき顔が、最初のうちは恨めしかった。
とにかくそこは、母が好きそうないい家だと思った。
問題なのはおじさんの存在だったが、端的に言って、おじさんはいい人だった。
お人好しだし、威張らないし、異様なほど子どもに好かれるのだが、どうしたものかと頭を抱えるほど片付けや掃除ができないし、いらない買い物ばかりしてきては、母に怒られ、平謝りをしているような人だった。
負けず嫌いで、母との喧嘩が終わっても1人でネチネチ突っかかってくる父(ちなみに私もその辺がよく似ている)とは真逆だったという部分が、おじさんの人柄の良し悪しとは関係なく、何となく気に入らなかった。
七十手前だというのにTシャツに短パン、ニューバランスのスニーカーを履いて、大学生のような出で立ち。お人好しが災いして今まで色々苦労をしたようだが、話を聞いていると、その人柄で飄々と生き延びてきた人のようにも思えた。
そうして、3週間ぐらい一緒にいたと思う。互いの食事を作ったり、掃除をしたり、最期は母のおむつを交換したり、一緒に介護を学んだりしながら、
おじさんと私は、光のスピードで去ってゆく母を看取った。
最期の日。今にも母の呼吸が止まる、という時に限って、おじさんはのんびりトイレに行ったりしている。それでいて、私よりもしくしく泣く。そういう人だった。
私は、世界一大好きな人の死を、ごく最近足を踏み入れた家で、ごく最近知りあったおじさんと見守った。
母がこの人と一緒に生きていくと決めた居心地のいい家。私や父の知らない、母の新しい人生の象徴のような空間だった。
そうして、いつの間にか自分が、母という物語の絶対的ヒロインではなくなっていたことに気づき、間も無く駆けつけた父の、所在なさげな佇まいに、さらに涙が溢れた。母が私に注いでくれた愛情だけに感謝すべき時に、消えてしまったいつかの家族を欲し、自分を哀れんで泣いている、本当にどうしようもない自分の子供っぽさにうんざりした。
『お母さん、今、無事に逝きました。そっちに挨拶に行くと思います。』
と電話をしてから2日後、父は得意のハンチング帽をかぶり、大きな鞄いっぱいに、母の写真を詰めて駅のホームに立っていた。母の人生における「母親編」のヒロインが私だとするならば、父は「夫婦編」のメインキャストだったわけだが、この章には「離婚」という明確な結末がある。
「違う人みたいだなぁ・・・」
母が「おじさん」と暮らしていた家の敷居をまたぎ、母の顔に対面してから、ぽつりと出た父の一言は、痩せすぎて見慣れない母の顔に対してのものなのか、何なのか。
それから父は夜遅くまで、母と付き合っていた頃や、新婚のころの話を私にした。自分の登場する章の中で最も華々しいページを読み聞かせるように一所懸命な姿が、何とも見ていられなかった。
私も父も、もうとっくに読み終わった物語の一部を指でなぞったり、反芻したりして、ただ今日を耐えているというような、そんな感じがした。
そうして、父と2人でペラペラと喋りながら夜遅くまでおかってに座り込んで家族写真を見ているとき、『親子で仲がいいんだね〜!』と、隣の部屋から出てきたおじさんが言った。
おじさんは、私たち家族について、母から聞いた話以外、ほとんど何も知らない。
父と私の邪魔をしないようにと、ニコニコ振舞うおじさんを見ていたら、ふいに、なんだか申し訳ないという感情が込み上げてきた。
私は、「過ごした時間」とか、「歳をとってからできた1人娘」だとか、そういう心底くだらないアイデンティティを盾にこの家でなんとか過ごしてきた。おじさんをなるべく視界から遠ざけようとしたり、「何年も会ってなかった大学の同級生でしょ」と、意識的に下に見たりしていた。
思い返せば、おじさんは、ずっと私に遠慮をして、母との話をしなかったし、母と私の時間を優先してくれていたというのに。
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11月、いよいよ冷え込んでくる季節のせいか、世の中的にも死者が多いようだ。火葬場がいっぱいで、通夜まで1週間の時間が空き、ようやくその日がやってきた。母の通夜と告別式については、伯母がしゃきしゃきと段取ってくれたおかげで、すごく助かっていた。
冷たい雨が降る夜の教会。前日にしまむらで買った黒のピンヒールのおかげで私の歩き方は、地面に引っ張られているようにギクシャクして、鏡を見ずとも、みっともなかった。
私はスパスパとヒールを引きずりながら歩を進め、まだ誰もいない教会で、母の顔を見た。
抜け殻・・・
重たくて不自由な体から、ひゅるるるる〜っと出て行った後の抜け殻という感じがした。母であり、母ではない何か。目の前にある母の身体を見るよりも、ニコニコ笑う遺影の方がよっぽど泣けた。実体としての母は、もうそこにはいなかった。
実際、多くの人が泣き崩れる火葬場での点火の瞬間も、私はちっとも泣けなかった。母はとっくのとうに、ここから離れたところに行ってしまっているという感覚が私にはあって、戻らない時間と、消えていく肉体には、もう用が無いと、しみじみ思ったのだった。
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さて、この文章を書こうと決めたのが母の死後半年で、いざ描き始めてからさらに半年経ってしまった。書いては消し、書いては消し、母の不在にふさわしい言葉を探し続けているうちに、数ヶ月前まで頭を抱え「私が死んだ時は庭に埋めてほしい」とまで嘆いていた相続手続きもなんとか終えることができた。
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と、相続手続きを終えて、ほっとしたという報告のみしたところから、さらに数ヶ月!(なかなか完結できない...)
母が亡くなったのは、ついにオトトシの出来事となってしまった2021年、現在。別に無理に意識して克服しようとしたわけではないのに、私は、母の人生の全てを柔和に受け入れることができるようになってきている。
半年前、おじさんが、母はスナップえんどうが嫌いだったと話した時、「絶対に大好きだったよ!」と、私は意地になって言い返していたが、もう、本当は母がスナップえんどうが好きだったか嫌いだったかなんて、どうでもよくなっているし、母の事を考える時間はとてもとても減った。
母が亡くなってから1年以上、ずっと色々考えてきて、この記録も、しつこく修正しては下書きに保存し続けてきたけれど、多くのことは時が解決するように、母の過去についての謎のジェラシーや、親しかった人たちの「母エピソード」へのアレルギーもいつの間にか消えていってしまった。
うちのお母さんは、みんなから愛されていたし、めちゃめちゃ面白かったし、めちゃめちゃ手厳しく、それでいて優しかった。だから人気者だったんだよね〜!
って最初から言えなかったのは、
ただただ、真っ暗でしんどい場所に居たからなんだろうな、と今では思える。
みんなが、あんな人だった、こんな人だった、と語るほどに、「死んだ人」「過去の人」と念を押されているような気がして、聞いていられなかっただけだったのかもしれない。
だからもう私も、亡骸を肥やしにしたうまい果実を食べて欲しい...なんていう暗い考えはちゃっちゃと捨てて、前に進みたいと思う。
庭の果実を甘くすることくらい、残されて生きる者にだって、きっとできるはずだから。
一方の父は、母が亡くなってから半年も満たないうちに、ついに自分のカレー店をオープンした。コロナパニックの中、「もうダメかも」と嘆いたり「お客さんがふえてるんだよ〜!」と喜んだり、一喜一憂の毎日を送っているようだ。地元新聞にも取りあげられたようで、「長年連れ添った元妻の死を期にオープンを決意」とネット記事に出ていた。何が転機になるか、分からないという事である。
そういえば、
私が、大学受験最終日を終え、「もうダメだ・・・落ちる気がする!!」と嘆いていた8年前のあの日、母が河井寛次郎美術館で買ってきたというポストカードをくれた。
「見て見て〜いいでしょこれ!『助からないと思っても 助かって居る』だってさ!助かっているんだよ!大丈夫なのよ!」って。
河井寛次郎の予言通り、私は実際、助かっていた。学校の先生に無理だと言われていた大学に受かった。
『助からないと思っても 助かって居る』
母を看取った時の私は、もうめちゃくちゃで、暗くて、凶暴だった。病床でもあの言葉を母になげかけ、励ましていたので、助からなかったじゃないか、もうダメだ、もう何もかもイヤだ!と、車の中で1人、ギャーギャー喚いて泣いていた。
でも、ほら、今。おかげさまで助かって居る。
母が感服していたあの言葉とともに、私は今元気でやっているのだ。
前の部屋では寒すぎてしおれていた多肉植物が、新居のキッチンの窓際に移った途端、みるみる元気になったので、その隣に母の写真を置くことにした。
「早く新しい部屋を見せてちょうだいよ!」って言ってるよな〜と思いながら、最後まで移動しなかった母の写真もこれにてセット完了。
ようやく全部の整理が着いて、物事が動き出した。そういう、いい空気が窓から入ってくる。まだ物の少ない台所で朝のコーヒーを入れながら、笑う母の顔を見て、目を細める。
どこにでもある、母と子の別れの話。
どこにでもあるからこそ、簡単に忘れてしまいそうな、バラバラの気持ち。
26歳、今の私に考え及ぶことのできる、大切な人の死について、子どもみたいに拗ねていた自分について、文章に記録して、この格好悪い1年ちょっとのことを、いつか思い出したいと思う。
おわり
乱文甚だしく、長い長い文章を、最後まで読んでくださってありがとうございました。。感無量!